アルツハイマー病新薬レケンビ・ケサンラの導入実態:希望者の2割しか投与できない理由とは?
超高齢社会を迎えた日本において、認知症、特にその多くを占めるアルツハイマー病は、私たちにとって決して他人事ではない大きな課題です。そんな中、2023年末から2024年にかけて、病気の進行を根本から遅らせることを目指した新しいタイプの治療薬「レケンビ(一般名:レカネマブ)」と「ケサンラ(一般名:ドナネマブ)」が登場しました。
これまでの薬が「一時的に症状を和らげる」ものだったのに対し、これらの新薬は脳内の原因物質に直接働きかける「疾患修飾薬(DMT)」と呼ばれ、世界中から大きな期待を寄せられています。しかし、最新の研究報告によると、この薬を希望して専門外来を受診しても、実際に投与にたどり着けるのはわずか「2割程度」という驚きの実態が明らかになりました。
なぜ、期待の新薬を多くの人が使うことができないのでしょうか。この記事では、レケンビやケサンラがどのような薬なのか、その適応と仕組みを解説した上で、東京都健康長寿医療センターの研究データをもとに、治療開始までの道のりとその背景について詳しく解説します。
1. レケンビとケサンラ:どのような人が対象で、どう働くのか?
まず、これら二つの新薬がどのような性質を持っているのかを整理しておきましょう。これらの薬は、これまでの認知症薬とは全く異なるアプローチで病気に挑みます。
適合となる症状の範囲(適応症)
レケンビとケサンラは、アルツハイマー病であれば誰でも使えるわけではありません。その対象は以下の二つのステージの方に限定されています。
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軽度認知障害(MCI)によるもの:日常生活に大きな支障はないものの、記憶力などの認知機能に低下が見られる、認知症の前段階。
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軽度の認知症:日常生活に多少の支援が必要だが、まだ自立した生活が可能な段階。
つまり、「非常に早い段階」で病気を見つけることが、使用の絶対条件となります。中等度や高度に進行してしまったアルツハイマー病患者の方には、残念ながら現在のところ有効性や安全性が確認されていないため、投与の対象外となっています。
脳を掃除する仕組み(薬理作用)
アルツハイマー病の脳内では、「アミロイドβ(ベータ)」というタンパク質がゴミのように蓄積し、それが神経細胞を壊すことが原因の一つと考えられています。これを「アミロイドカスケード仮説」と呼びます。
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レケンビの働き:アミロイドβが大きな塊(プラーク)になる前の、より毒性が強い「プロトフィブリル」という段階の物質に結合して、脳内から取り除きます。
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ケサンラの働き:脳内に沈着してしまったアミロイドβの塊(アミロイドプラーク)そのものを標的にし、免疫細胞の一種であるミクログリアの力を借りて、塊を強力に除去します。
どちらの薬も「脳内のゴミを掃除して、神経細胞が壊れるスピードを緩やかにする」という点では共通しており、これによって記憶力の低下や判断力の衰えを、統計学的に有意に遅らせることが証明されています。
2. 治療開始までの「2段階のハードル」と過酷な現実
新薬への期待は非常に高く、多くの患者さんやそのご家族が「ぜひこの薬を使いたい」と病院を訪れます。しかし、東京都健康長寿医療センターが行った調査では、希望者のうち実際に治療を開始できたのは約20%でした。
なぜ、8割もの人が治療を断念、あるいは対象外となってしまうのでしょうか。そこには、厳格なスクリーニング体制と、患者さん自身の決断という二つの大きな壁が存在します。
第1段階:もの忘れ外来での「ふるい分け」
まず、最初の相談窓口となる「もの忘れ外来」を受診した456名のデータを見てみましょう。ここで最初の大きなふるい分けが行われます。
この段階で最も多い脱落理由は、「症状が進みすぎていたこと」です。先ほど述べた通り、この薬は早期の患者さん専用です。受診した時点ですでに中等度以上の認知症に進行しているケースが多く、医学的なガイドラインに照らして「適応外」と判断されてしまいます。
また、認知機能検査(MMSEなど)の結果が、新薬の対象となるスコア範囲(一般的に22点以上)に届かない場合も、この時点で治療を諦めることになります。結果として、専門外来(DMT外来)への紹介に進めたのは、456名のうち205名と、半分以下に絞られました。
第2段階:専門外来(DMT外来)での精密検査
次に、専門外来を紹介された205名には、さらに詳細な検査が待ち受けています。
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アミロイドPETまたは脳脊髄液検査:実際に脳内にアミロイドβが溜まっているかどうかを確認します。驚くべきことに、検査の結果「アミロイド陰性(溜まっていない)」と判定されるケースがあります。この場合、認知機能低下の原因がアルツハイマー病ではない可能性があるため、投与はできません。
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MRIによる禁忌確認:脳出血の痕跡や微小な血管の損傷がないかを確認します。過去に5個以上の微小出血がある場合や、脳血管に大きな問題がある場合は、副作用のリスクが高すぎるため、投与は「禁忌(禁止)」とされます。
この第2段階までをクリアし、最終的に投与にこぎつけたのは87名でした。最初の希望者456名から考えると、わずか19.1%。これが日本の医療現場における、アルツハイマー病新薬導入のリアルな数字です。
3. 治療を断念する理由:副作用への懸念と生活上の負担
医学的な条件は満たしていても、患者さんやご家族の意思によって治療を見送るケースも少なくありません。研究データでは、専門外来での説明を受けた後に「自ら辞退する」割合が一定数存在することが示されています。
副作用「ARIA(アリア)」への不安
最も大きな不安要素は、これまでの薬にはなかった特殊な副作用である「ARIA(アミロイド関連画像異常)」です。
ARIAには、脳にむくみが生じる「ARIA-E」と、微小な出血が起こる「ARIA-H」があります。多くは無症状で、時間の経過とともに自然に改善しますが、稀に激しい頭痛、錯乱、視力障害、さらには重篤な脳出血を引き起こすリスクもゼロではありません。
特に75歳以上の高齢者や、特定の遺伝子(ApoE ε4)を2コピー持っている方では、この副作用が出やすい傾向があります。医師から丁寧な説明(インフォームドコンセント)を受けた際、このリスクを天秤にかけ、「そこまでしてリスクを負いたくない」と判断されるご家庭も多いのです。
通院と費用の負担
生活面でのハードルも無視できません。
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頻繁な通院:レケンビは2週間に1回、ケサンラは4週間に1回、病院で点滴を受ける必要があります。点滴自体に30分から1時間かかり、さらにその後の経過観察を含めると、半日がかりの仕事になります。高齢の患者さんがお一人で通うのは難しく、付き添うご家族の仕事や生活への影響が大きな負担となります。
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検査の継続:副作用を早期に発見するため、投与開始後しばらくは、数ヶ月おきにMRI検査を受ける必要があります。これもまた、時間的・身体的な負担となります。
日本では「高額療養費制度」があるため、薬剤費そのものの自己負担額は一定の範囲内に抑えられますが、それでも月々の医療費負担が増えることに躊躇されるケースも見受けられます。
4. 性別や年齢によって異なる「治療の壁」
研究では、性別や年齢によって治療開始率に違いがあることも興味深い点として挙げられています。
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男性のハードル:男性は女性に比べて、MRI検査で「微小出血」が見つかる割合が高い傾向にありました。これは、加齢による血管の変化や、過去の生活習慣病の影響などが考えられます。このため、男性の方が「医学的な理由」で投与を断念せざるを得ないケースが多いようです。
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75歳以上のハードル:高齢になればなるほど、前述のARIAへの懸念や、アミロイドがそれほど溜まっていないケース、あるいは通院の体力的負担を考えて、治療を選択しない割合が増加します。
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症状が極めて軽い層:MMSEのスコアが30点満点中27〜30点といった「超早期」の層では、「まだ薬を使わなくても大丈夫ではないか」「副作用のリスクを冒してまで今すぐ始めるべきか」という迷いが生じやすく、治療を見送る傾向が見られました。

5. 投与中に起こりうるその他の副作用について
ここまで、主に「ARIA」や「点滴反応(インフュージョン・リアクション)」といった代表的な副作用について触れてきましたが、医薬品インタビューフォーム(IF)には、それ以外にも報告されている副作用が詳しく記載されています。これらはARIAほど重篤ではない場合が多いですが、治療を続ける上で知っておくべき重要な情報です。
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過敏症・アレルギー反応:
発疹や皮膚のかゆみ、じんましんなどが現れることがあります。これらは薬の成分に対する免疫反応です。 -
精神神経系の症状:
頭痛はARIAを伴わなくても起こることがあり、他にもめまい、平衡障害(ふらつき)、錯乱状態、抑うつ症状などが報告されています。 -
消化器症状:
吐き気(悪心)や下痢、嘔吐などが現れることがあります。 -
全身状態の変化:
倦怠感(体がだるい)、発熱、悪寒、低血圧、血圧の上昇などが、点滴中や点滴後に見られることがあります。 -
血液・尿検査の異常:
肝機能の指標であるALTの増加、血中コレステロールの増加、蛋白尿などが確認されることがあります。
これらは全ての患者さんに起こるわけではありませんが、体調に異変を感じた際には、すぐに主治医に相談できる体制を整えておくことが不可欠です。
まとめ
アルツハイマー病新薬レケンビとケサンラは、認知症治療の歴史を大きく変える一歩となりました。しかし、その恩恵を実際に受けられているのは、受診した方のわずか2割に過ぎないというのが現在の日本の実情です。
この「2割の壁」を突き崩すためには、いくつかの課題があります。
第一に、「早期発見・早期受診」の徹底です。多くの人が「適応外」となるのは、受診した時点で症状が進んでいるからです。少しでも「おかしい」と感じたら、すぐに専門医に相談する文化を根付かせることが重要です。
第二に、「共同意思決定」の充実です。副作用のリスクや通院の負担を正しく理解し、医師と患者、家族が納得して治療方針を選べるような支援体制が求められています。
そして第三に、より安全で負担の少ない治療法の開発です。現在は点滴が主流ですが、将来的に皮下注射などの簡便な方法が普及すれば、通院の負担は大きく軽減されるでしょう。
新薬は魔法の杖ではありません。しかし、病気の進行を遅らせ、大切な人との時間を少しでも長く維持するための貴重な選択肢であることは間違いありません。この薬が正しく、そして必要な人に届けられるよう、社会全体でこの新しい医療の形を支えていく必要があります。
